出会いと別れ

 7月13日に始まった上越、長岡、佐渡市と続いたコンサートも無事に終了した。いつも通りのご挨拶だが観客の皆さんの本当に暖かな拍手や声援に感謝するばかりである。今回も老若男女、多くの皆さんが会館へ観に来てくださった。

 生憎、新潟を中心に日本海側では梅雨前線の影響で毎日が雨模様、そんな天候は最終日の佐渡まで続いていた。新潟県内のステージ、特に佐渡は始めて訪れる場所で何か気になっていてフェリーが接岸する前から窓越しに島を見つめていた。東京23区の1.5倍、想像以上に大きな島、会館へと向かう車内でも街の様子とガイドマップの両方に目を向けていた。

 通常より早めの会館入りだった。僕たちの疲労は頂点に達していてのリハーサル、しかし、開演時間前には体調を整えることが出来た。いよいよ開演、観客の皆さんの姿が目に入った。佐渡での初ステージ、緊張していたのか?僕はオープニング曲後のご挨拶で言葉がスベッテしまった。いつもとは違った感触で第一部を終了して第二部に入った。二部では皆さんがよく御存知の曲が多いせいか、後半の「てんとう虫のサンバ」を歌う頃には観客の皆さんの表情も最高潮だった感じがする。会場内の照明も全開、エッチャンと皆さんとのトークタイムだ。その時、ある女性の姿が目に入った。何処かでお会いしたような・・・?、そう、拉致被害者だった曽我ひとみさんの姿だった。驚いた!僕たちの時代より少し若い彼女、ましてや空白の数十年間で僕たちの事、いや、僕たちの歌を知っているのだろうかと不思議な気持がした。僕はステージ上から、エッチャンは会場内から「ようこそ!楽しんでくださいね!」と声をかけた。

 2時間程のステージも無事終了、エッチャンの体調が完全ではなかった3日間のステージだったが何とか乗り切る事が出来た。いつも以上に安堵感を感じ楽屋へ戻った。しばらくして、主催者の担当者の方がドアをノック、「曽我さんが楽屋前で待っていらしゃいますよ」と、声をかけてくれた。またまた驚き!僕のイメージでは小柄なイメージだった彼女だが、実際は大柄な容姿だった。僕たちには理解できない程の辛く苦しい時を越えて来たのだろうが、何かはにかんでいる様な言葉と笑顔がとても新鮮に感じられた。そして、1972年版の「雑誌・平凡の歌本」を手に「若かったですね!」と、話しかけてくれた。

 34年前の歌本の表紙は野口五郎、確かに時は流れている!彼女の異国での生活を考えると胸が痛む想いだった。周りには曽我さんをサポートしている同級生の皆さんも一緒だった。皆さんも大変なご苦労だったと思う。僕は「また、お会いしましょう!」と言葉をかけた。そして記念撮影、拉致問題は未だに解決してはいない。写真の彼女には大きな笑顔は見られなかった。きっと、すべての被害者の皆さんの無事帰国が叶うまでは心の底から笑う事など自分自身に許されない事なんだろうと感じた。彼女からのプレゼントは「ブルーリボン」、僕たちもこれまで同様、拉致被害者全員の無事な帰国を願っている。

曽我ひとみさん
曽我ひとみさん

 さて、この10日間、正確に言えば7月9日から11日の3日間は何がなんだか解らないくらいの毎日だった。又、それは我が家にとって最も悲しい3日間でもあった。

 7月8日は「ファンサイトの会」、待ちに待ったその日がやって来た。管理人さんはじめ、ファンサイトの代表の皆さん、事務所のスタッフと僕たちが都内で一同に会した。皆さん各自、チェリッシュへの思いが満ち溢れ僕は本当に嬉しかった。又、僕のその日の心の悲しさを和らげてくれた。実は8日の午後5時に母が他界したとの連絡が入った。会の始まる30分前だった。楽しいひと時、本来なら途中退席するつもりは無かった。もっともっと皆さんと同じ時間を共有したかった。でも、最終の新幹線には乗りたかったのも本音だった。母の事を伝えずに退席した事、大変申し訳なかったがこの場を借りてお許しを頂きたい。

 3月27日の埼玉県和光市でのステージの第一部を終了して楽屋へ戻った時に娘から母が倒れたとの連絡を受けてから3ヶ月半、意識不明の状態が続いていた。いつか来る「その日」を覚悟してはいたが・・・、やはり寂しい。10日が通夜、11日は告別式、12日が移動日、そして13日からコンサートと続いた。帰宅した18日以降もスケジュールは決まっている。本当に寂しくなるのはこれからだろう。

 父が他界して4年の歳月が流れた。きっと今頃は天国で再会を楽しんでいるだろう。6人家族が4人になった。でも、僕たち家族の心の中ではいつまでも6人家族、いつまでも・・・、いつまでも・・・。7月11日は母との最後の「別れ」の日だった。棺を前に「これまで育ててくれて本当にありがとう!」と、心の中で呟いた日だった。