贈る言葉

 例年、我が家にとっての6月は夫婦の結婚記念日と息子の誕生日が重なって、何となく心ウキウキの月であるが、今年はもう一つのお祝い事が生まれた。それは「息子の卒業」だった。その言葉に誘われて、息子をこよなく愛してやまない母親と彼の思い出の地となったニューヨークへ出かけた。僕にとっては2004年4月以来の3年振りの旅だった。でも、今回の旅は今までとは違って観光でもなく、リフレッシュでもなく、帰国準備に伴った引越しの手伝いが目的の旅だった。又、敢えて付け加えるとすれば「真珠婚」を迎えた僕たちの記念の旅とも考えていた。数日遅れで娘も合流し、家族4人が久々にニューヨークに集まる事となった。

 振り返れば、娘が最初にニューヨークへ留学したのが7年前、その後、息子も5年間同じアパートで暮らした。一般的に考えても引越しは大変な労力を要する。又、長期間に渡って生活すればするほど様々な身の回りの品々が増えるものだ。思い出の品、捨てがたい物が多数あるに違いない。

 僕たちのニューヨーク行きが決まってから、彼がどのくらい後片づけしているのか気になっていた。到着するまでに概ねの事は済ましていた様子だった。荷物の大半は引越し用のダンボールに梱包されてはいたが、それでも未整理の品が残っていたのも事実だった。何から手につけていいのか?しばし、それらの品々をながめていた。

引越品


 妻は息子と相談しながら少しずつ梱包作業を始め出していたが、僕はただ見ていただけだった。と言うのも、久々の13時間を超す空の旅、アメリカン航空機内のエアコンは冷えきっていて、さすがの僕も到着2日目に発熱してしまったのである。幸い、一日の休養で何とか体を動かせるようになった。妻と娘と息子の共同作業を眺めながら、僕は以前と同様に「居候状態」を実感していた。

 日本へ送るダンボールは28個程になった。後は「海外引越し便」へ渡すだけ、でも、その他、諸々、まだまだあった。これといった手助けも出来なかったが、男には男の役割があるもの?その後の力仕事が僕の出番だった!(勿論、息子の力を借りての話だが) 例えば、要らなくなったベッドや衣類棚や食器棚、机や椅子、廃棄するものはアパート横にあるゴミ置き場へ運んだ。エレベーターが設置されていないアパートでの搬出は大変だったが、部屋が2階でよかった。それでも、僕も息子も汗まみれになりながらの作業を繰り返した。又、NYに残る友人に譲るPCや机、テレビ、鏡、雑貨などは、レンタカーを借りてブルックリンやミドルタウンにある友人宅まで運んだが、マンハッタンでは駐車スペースを見つけるのは至難の技である。日中、アパートの目の前に車を駐車しての搬出入など不可能に近い。駐車スペースを確保出来るとすれば、深夜3時過ぎから夜明け前の数時間に限られる。従って、アパートから何十メートルも離れた場所まで、息子と重い荷物を何回もかけて運ぶと言う過酷な作業になってしまった。

 少しずつ閑散となっていくアパートの室内、僕はそんな空間を眺めながら妙な寂しさを感じていた。何なんだろうか?多分?息子も同じだったと思う。青春真っ只中、世界一の大都会で一人、学生生活を過ごした思い出の部屋との別れは言葉で表現できない何かがあるだろう。

 数年前までの6月は、僕たち家族にとって「アメリカ・レンタカーの旅」へのスタートの月だった。でも、今年はゴールの6月となった。父親として彼は本当によく頑張ったと思っている。誇りにさえ感じる。でも、それは一人の力では成しえなかっただろう。留学中に出会った良き友人達、先輩や後輩の支えがあったからこその結果だと思う。これからの人生、そんな友への感謝の気持ちをいつまでも忘れないでいて欲しいと願っている。


友人達と


 僕のデスクの上には、雛人形の前でキョトンとした表情の4歳と2歳の子供たちの写真、又、アメリカを旅していた時の家族4人の笑顔の写真が飾ってある。これまで、僕たち夫婦は「優しい母親、頼れる父親」を目標に子供たちを育ててきたつもりだ。結果はともかく、区切りだろうか?写真を見つめていると、何か一つの役割を無事に終えた気がする。「夢の中の出来事?」、幼かったあの頃の姿が昨日の事の様に思われてならない。

 何はともあれ、卒業オメデトウ!「これからも健康で、家族仲良く、頑張ろうぜ!」が、僕から息子へのメッセージ!「贈る言葉」である。



思い出のアパート